「紙・姿・詩」展 ライブペインティング「鬼と鏡」レポート

こんにちは、Up & Comingのスタッフです。
本日は第2回展「紙・姿・詩」のライブペインティング「鬼と鏡」の模様についてレポートします。

このイベントは、ゲストの栗原一成さん(アーティスト、多摩美術大学油画専攻教授)と出品作家の胡琪(コキ)さんによる、前半:ライブペインティング・後半:トークの2部構成で行われたイベントです。

 

前半 ライブペインティング

前半のライブペインティングでは、栗原さんと胡琪さんそれぞれが片手に鏡を持って、壁に貼った大きなケント紙に向かいました。
2人は鏡を通して自身や観客を見ながら、ダーマトグラフ・絵の具・カラーペンといった様々な画材を使い色を走らせていきました。

「鏡」というものについて、普段はじっと見ると気が狂うという栗原さん。
このライブペインティング中は自身と観客の両方をじっと見ながら、顔の輪郭などを追っていたのだと後半のトークで話していました。ただ、最後の方は飽きて見なくなってしまったそうです。

対して胡琪さんは、自分を描いてみようと思いながらも別のものを描き始めてしまって、鏡を見ている一方で自分から逃げてもいたのだと話していました。

会場には描く音が響き渡っていました。それに加えて、ところどころで交わされるちょっとした会話では、後半のトークにつながる話や、ときには観客がクスッとする場面も見られました。

 

後半 トーク

後半のトークはライブペインティングから小休憩を入れて胡琪さんの自己紹介からスタートしました。

胡琪さんは中国出身の作家です。2018年に来日し、多摩美術大学油画の修士〜博士号を取得するまで担当になったのが栗原さんでした。
そういったつながりから企画されたこのイベント「鬼と鏡」は、栗原さんがタイトルを提案したそうです。

 

「鬼と鏡」とは?

「鬼と鏡」は茨城県にある昔話が元になっています。
その昔、山の中に鬼がよく出たそうです。あるときそこに鏡のような石が現れて、鬼はその石と一緒に遊んでいました。するといつの間にか、遊んでいた鬼がいなくなってしまったのです。村人たちは、怖い鬼でも鏡を目の前にすると消えるのだなと話しました。

「鏡のような石と遊んで消えるのはなぜか」
「鏡のような石と遊んでいたら鬼でさえも消えてしまう」

この昔話を聞いたときに、皆さんはどちらの発想になるでしょうか。
栗原さんは「鬼でさえも消えてしまう」と思ったそうです。そして、理屈なくそう思うところが今回のテーマのヒントになりました。

 

さて、タイトルについて触れたところで話はいよいよ本題へと入っていきます。
普段、聞いてはいけないことを聞きたいと言った胡琪さんは、自身の話を交えながら栗原さんへ質問を投げかけていきました。

 

「描く」ときに考えること

胡琪さんにとっての「描く」とは、自身と向き合うことと同時に、自身や現実から逃げることでもあります。
そして、栗原さんが「描く」ときに考えていることは「より現実に」ということです。「描く」行為自体は能動的なものであるものの、「描く」ことは「受け続ける」ことなのだと話しました。

そこで、栗原さんは「描く」ときに起こる2つのことを挙げていました。
ひとつは「本能的で無思考的な手の動き」、そしてもうひとつは「歴史的で概念的な行為」で、簡単にまとめると以下のような違いがあります。
 ・本能的で無思考的な手の動き…意識せずに出てくる動きの中で描くこと
 ・歴史的で概念的な行為…「この描き方をするとこのような絵になるな」「この感じだと絵になりやすいな」という過去の自身の経験のこと

栗原さんにとっての「描く」ことはこの2つの行為が同時に起きていることであり、描くこと自体が「現実」なのだと話していました。

 

「描く」行為での同時性

胡琪さんの場合、博士課程を修了する前後で、制作の中に現れる「本能的で無思考的な手の動き」と「歴史的で概念的な行為」が変化しています。

2階に展示されている作品《扉》は、博士課程の修了制作でもあります。
当時、「鑑賞者の目線」から逃げられない状況にあった中で計算をしながら描いた作品であるため、胡琪さんの自我があまり出ていません。対して修了後に描いた作品は、自由に描きたいという気持ちから本能的な部分が出てきているのだと言います。

《扉》撮影:ベク ヒョンギョン

栗原さんの「描く」ことは「本能的で無思考的な手の動き」と「歴史的で概念的な行為」との同時性です。

胡琪さんが「鑑賞者の目線を意識して自我があまり出ていない」と言っていたことについて、栗原さんの考えでは、自我の部分(本能的で無思考的な手の動き)がなくなることはなく、抑えることはできてもゼロにして描くことはできません。

そして、もし描いているときに「歴史的で概念的な行為」に偏ったとしたら、重要なのはそこで始まる「自己否定」です。
「自己否定」とは、「本能的で無思考的な手の動き」と「歴史的で概念的な行為」の2つで「断絶」をすることです。片方だけでの断絶ではありません。

これができないと、自分が安心するところに居続けて「自分が分かる範囲」の中でしか動けなくなってしまうのだと話しました。

 

描く」ときに表出する同時性

例えば私たちが花を見て綺麗だなと感動する場面があったとします。花を見て「綺麗だ」という言葉が出る前の「あっ」と思う瞬間、それが「同時性」です。
そしてその「あっ」となる瞬間に感動しているものの正体とは、「形があるけれど形がないもの」なのです。

目の前に椅子があったとします。普段、私たちが椅子を見て感動することはそこまで多くありません。
椅子の持つ何かに感動して絵にしたいと思ったとき、そこには椅子でありながら説明ができない、「分かるけれど分からないもの」に対する魅力を感じています。
つまり、描くときに表出する同時性とは、私たちが惹かれる「形があるけれど形がないもの」や「分かるけれど分からないもの」に対して「あっ」と思うその瞬間のことなのです。

 

絵の完成と他者の視点

胡琪さんにとっての「絵の完成」は、他者から見たときに、自身の作品が完成していると思われることであり、相手がどう受け入れるのかを考えることです。

では、栗原さんはどう考えているのでしょうか。
栗原さんにとっての「絵の完成」とは、絵を描きながら白いキャンバスに戻ること…つまり、私たちが惹かれる「分かるけれど分からないもの」に対して「あっ」と思う瞬間(同時性)が絵に表出してくることです。

ここで言う「白いキャンバス」とは、物としての「白いキャンバス」とは違います。
例えば絵を描く前に白いキャンバスを張ります(※1)。
やっと張れたその白いキャンバスを見たときに、白いキャンバスが綺麗で「あっ」となる瞬間、これ以上その白いキャンバスに絵の具をつけて描く必要がないのではと思うことがあります。
つまり、「白いキャンバスに戻る」ということは、前に例としてあげた花を綺麗だなと思う瞬間とも同じことで、「あっ」となる瞬間に生まれている同時性をそこで感じ取っているということです。

「描く」ことで、白いキャンバスには絵の具が重なっていきます。
「絵の具が重なる」ということは「自己が次々に付与されていく」ことなので、白いキャンバスに近づいている感じがありません。何かが描かれているにも関わらず、白いキャンバスを見た時の「あっ」という瞬間を感じ取れるかがポイントなのです。

 

さて、約1時間半にわたるイベントは、最後に質疑応答を交えて終了しました。
ライブペインティングで2人の「描く」行為を目の当たりにし、そこで描かれた絵を背景に行われたトークでは、「描く」ということについてお互いに深く掘り下げた内容となりました。

flickrでは、今回のトークイベントの様子や、そのほか過去に開催した展覧会の様子もご覧いただけます。
https://www.flickr.com/photos/akibatamabi21/

(堀田)

 

※1「キャンバスを張る」とは…木枠に麻布をタックス(小さい釘のようなもの)やガンタッカーで固定すること。大きいものだと張るだけでも大変で時間がかかる。

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