こんにちは、Up & Comingのスタッフです。本日は第9回展「花へ、ふたたび問ふこと。」ギャラリートークの模様についてレポートします。
今回のトークでは、ゲストに神奈川県立近代美術館学芸員の三本松倫代さんを迎え、出品作家の曽田萌さん、髙野真子さん、宮林妃奈子さん、山口彩紀さんの5名が登壇しました。






山口さんの司会で登壇者の紹介からスタートしたこのトークでは、普段の制作や出品作品の話を中心として、展覧会全体のことにも触れていきました。このレポートでは内容の一部をご紹介します。

宮林妃奈子さん
宮林さんは、普段、油彩・水彩・リトグラフなどの平面を軸に制作しながら、空間と絵の関係性を探るフライングペインティングも行っています。
絵を描くときには、「何を描くか」よりも「何の素材を選ぶか」を先に考えるので、地塗りされていないキャンバス・麻布・紙・木など、そのときどきで偶然出会ったものの中から必然性を探しつつ素材を選び取っています。
紙やキャンバスなどの描かれる基盤となるものは、一般的に「支持体」と呼ばれます。宮林さんにとってこの「支持体」は、「受け止めてくれる手」であり、描いたり、引いたり、触ったりする手と「受け止めてくれる手」とのやり取りで絵ができていくのだそうです。
宮林さんの作品では、キャンバスに布や紙が重ねられることがよくあります。それは、一見すると面として重なって見えるものです。しかし、それはレイヤーになっているのではなく、さまざまな形の粒が連動し振動してできているものではないのか、と宮林さんは考えています。
例えば地面を見ると、目の前には面としての地面があります。もともとは土であり、砂や石の粒が集まり固まって面になったアスファルトです。それらは、時間経過とともに面が収縮し、ぶつかり合って亀裂ができます。そこで境界線が生まれ、線ができます。
宮林さんは、粒から面になったり面から線が生まれたりする、日常当たり前のように起きていることが、絵で起きていることなのではないかと話しました。「何かを描く」というよりは、目の前にあるものや、そこにある力に問いかけ対話をしながら進めていくことが絵を描くリアリティになっているのだそうです。
宮林さんの出品作品は、和紙に油絵具・水彩絵具・胡粉・木炭を素材とした4点です。展示空間を見たときに、キャンバスより軽いものを置きたいと思ったことから紙の作品になりました。

また、今回の作品は、ドローイングではありません。もともとドローイングを日課にしている宮林さんにとって、ドローイングは瞬間的な運動を紙にのせたものですが、目の前に起きている粒を見るように描かれたものが今回の「紙の作品」です。
和紙の上にのる白い色は胡粉で、描いている時は発色していないグレーの状態でした。乾くと急に白がやってきたという変化もあり、何日かかけて時間を変えながら描かれた作品です。宮林さんは、手の中にあるこれから続いていく足りなさを意識していたと話していました。
山口彩紀さん
山口さんは、生涯の研究テーマになりそうだという「なぜ自分が絵を描いているのか」ということを中心に話していました。
山口さんが暮らす札幌市南区は、都会にも近い自然豊かな場所で、南西にはエゾシカやヒグマが住んでいるような深い森があります。都会と自然の狭間にある山の門のような場所で、そこでの暮らしは制作と密接に繋がっています。
4年前、学生だった山口さんは、帰省した際にお姉さんと山林道に出かけました。
幼い頃からよく訪れていた場所でしたが、そこには、かつてはなかった「熊出没注意」の看板が立てられていました。気に留めずに歩いていた山口さんは、笹のある場所にたどり着きました。すると急に獣臭がして、本能的に危険を感じ引き返そうとした瞬間、そばから呻き声が聞こえてきました。
ヒグマかと思った山口さんが叫んで逃げると、目の前に現れたのは茶色の毛が生えたエゾシカでした。そのエゾシカは、勢いよく飛び出すと、美しい弧を描きながら走り去っていきました。
山口さんはその光景を見て、「これが本当の美術だ」と思い、今後死ぬまでに美しい線を描き続けたとしてもそのエゾシカが描いた美しい弧には敵わないなと感じたのだそうです。
そして、人間として生まれたからには、人間にしかない「美しい」という感受性を、動物が足跡を残すように作品として残せば良いと思ったと話していました。
《雪のころも》は、雪どけを描いた絵画作品です。長い冬の時期に雪から頭を出す枯葉に惹かれていた山口さんは、枯葉にも「新春を待つ」という花言葉があることを知りました。
《雪のころも》というタイトルは、雪衣(ゆい)という知り合いの名前に美しさを感じたことからきています。雪は大地にとっての服なのか、寒くなったから地球も氷の服を着るのだろうか、雪が降った日は暖かいと感じることがある……そのようなことを思いながら描いた作品なのだそうです。
また、この作品は絵の表面にたくさんの針が刺さっています。これは、山口さんが昆虫展で見た標本や、かつて自由研究で作っていた蝶の標本の思い出から来ています。
絵の下の方では絵の具のような意識から毛のように刺さっていて、上の方では蝶を捉える標本のように刺さっているとのことです。

三本松さんは、山口さんのステイトメントである「記憶に留めないものを留めること」が具体的にピンにも表れつつ、ピンがあることによって空間に対して介入し多層性が生まれていると話した上で、作品に使われている糸や左右に設置されている立体作品がインスタレーションとして空間を展開している、と続けました。

髙野真子さん
髙野さんは映像作品を2点展示しています。
インスタレーションや参加型の立体などを制作していた髙野さんは、3年前、大学の授業をきっかけに映像作品を作り始めました。
髙野さんの映像制作は、まず詩を書くところから始まります。そして、文章を言葉として音にのせて音を録ります。最初に音を編集し、写真集に映像素材をはめるようにして編集しています。
作品のテーマは、「生命が生まれること」「生まれさせられること」「死ぬこと」「殺すこと」といった、命が生まれることや死との関係性です。
《I was born》はグレープフルーツがモチーフの映像作品です。
グレープフルーツを生命に見立て、髙野さん自身がグレープフルーツを剥いたり食べたり小さな果肉の粒を並べたりと、さまざまな形で扱っています。例えば、皮に包まれたグレープフルーツが割れて散乱している様子は、「食べられた」「殺され命が潰された」という形で扱っていたり、反対に、グレープフルーツを大事そうに撫でたり転がしたり水に浮かべているところは、「生まれた命」のように扱っていたりと、生命にまつわるあらゆる形をグレープフルーツで表現しています。

髙野さんは、胎児が自分の意思で生まれることができない状態や、親が胎児に意思を聞けないままその赤ちゃんが生まれることについて、「私は生まれさせられた」という受け身の感覚を強く持っていました。
また、21歳で子宮内膜症になったときに、医師から問われた「あなたは赤ちゃんを産みますか」という言葉に戸惑いを覚えたということがありました。
《I was born》は、「私は生まれさせられた」という感覚と、「自分が産む側になるかもしれない」と唐突に言われた時の戸惑い、そして、「産むことはどういうことなのか」「生まれさせられたこと」「勝手に産むことはどういうことなのか」そういったことをまとめた作品です。
曽田萌さん
曽田さんの制作は、大学院に在籍する前に約2年半の間働いていた花屋での経験が大きく影響しています。
最初、曽田さんは切花を生首みたいだと感じていました。花屋では、まず、花の正面を合わせる「フェイスアップ」という仕事を教わるので、生首の顔を向けなければいけない困った仕事だと思ったのだそうです。
花について語る人はその美しさにばかり触れますが、曽田さんはそのことに少し違和感を持っていました。花が育てられ切られて花屋に持ち込まれること、花が上を向くように水揚げされることなどから、人為的に美しい造形にさせられているのだと感じていました。
そのような曽田さんの感覚が変化したのは、花束やアレンジメントの仕事を覚えたからでした。
最初、曽田さんは花を握りしめたり差し続けたりして、花束を上手く作れなかったそうです。そうすると花がぐったりとして売り物にならなくなります。そんなときにかけられた言葉が、「生き物ではなくなまものだから、ケーキと一緒」「植物が自然に生えているところを覚えてくること」でした。
植物が自然に生えている状態を想像して作るようになった曽田さんは、花束が作りやすくなったと同時に、それまで「生首」だと感じていた花に対して「なまものとしての花」だと感じるようになりました。
曽田さんは、花の屈性や、水揚げでシャキッとする動きの勝手さに「生きている」と感じると同時に、疑問も感じました。そして、「扱って使っている」という状況が気になったのだそうです。
そういった花屋での経験から、曽田さんは、人為的につくられた観賞用の植物にも人間の死生観を投影したり、相似的に自身の身体みたいに捉えようとする時があることについて研究したいと思い、大学院に進学したのだと話していました。
曽田さんの絵画作品《腹のまなこ》は、ヒヤシンスの由来になっているギリシア神話が元になっています。
太陽の神と風の神に愛されていたヒュアキントスという美少年がいました。あるとき、ヒュアキントスが太陽の神と円盤で遊んでいると、風の神が嫉妬して風を吹きました。するとヒュアキントスは、頭に円盤が直撃して倒れて死んでしまいました。そこに咲いた花がヒヤシンスだと言われています。

曽田さんはその話を聞いて、「死んだ」ということは、ヒュアキントスはどこかから生まれた人間であり、人間だからこそ花が生まれる話ができたのだと思ったそうです。
どこかから人が生まれ、生まれた人から花が生まれる、そういった流れから描き始めた作品が《腹のまなこ》でした。
タイトルの「花へ」に込められたこと
髙野さんが「花へ」というタイトルに感じていることは、「生きているもの」「生かされているもの「生かさせられているもの」に対して「花へ、再び私は問いかけます」というイメージでした。
曽田さんは、死に向かっていく先の未来のことを考えたときに「花へ」という言葉がちょうど良いと思ったそうです。
宮林さんは、「花」を仮の言葉として捉えていて、今、自分が日本で絵を描いていること、そこで終わりではなくどこに存在するか、どう関係していくか、そういった思いから「場」ではないかと思ったとのことです。
制作の中で、すでになくなってしまったものや消えて残されたもの、気配を重要なものと捉えている山口さんは、「花」は気配であり自身に対する意味合いも含まれているのだと話しました。

この展覧会は、作家活動を続けるにあたり、精神的な支えになっていた作家の存在がテーマになっていました。それは、詩人の茨木のり子や高橋順子のように長く作り続け、強さがある女性作家でした。女性性という観点から、フェミニズムではない側面を残したいという思いから企画されたのだそうです。
三本松さんは、作家が日々考えていることや問題としていること、お互いに影響を受けたこと、年齢が近いことなどが自然に交錯して、同じように持っている問題意識や日々に対する感性のあり方の重なりが面白いと思ったと話していました。また、ラフな空間に対して繊細に介入しているところが良く、光の具合で見え方が変わり違う文脈が発見できると思ったと続けていました。
今回のレポートでは触れなかったものの、トークでは、来場者からの質問で影響を受けた作家の話もされていました。Up & ComingのYoutubeチャンネルではイベントのアーカイブを公開していますので、ぜひこちらも合わせてご覧ください。
flickrでは、今回のトークイベントの様子や、そのほか過去に開催した展覧会の様子もご覧いただけます。
2025年5月19日(月)堀田